「面倒くさい」って感情は危ない

最近、祖母が入院した。

病状的にはあまりよろしくないようだ。

 

元気だけが取り柄の人だったし、

仮にも二十歳まで同じ屋根の下で暮らした家族である。

心配だったので帰省も兼ねてお見舞いに行った。

 

想像以上に衰えていて、正直なところショックだった。

正月会ったときは元気だったし、新年会でたくさん飯食っていたのに。

話し声も弱々しいし、元々遠かった耳がなお遠くなっていて、会話するのも以前ほど楽ではない。

何より、アレだけ食欲旺盛だった人がご飯をほとんど食べられないということが衝撃的だった。(食欲がないことはもちろんだが、ご飯をスプーンで口に持っていくのも手がおぼつかない)

 

そんな状態なので、お見舞いに行ったところで、さして会話できるわけでも暇を潰してあげられるわけでもなく、ただ居るだけ。

何か元気づけられればよいと思っていたがそれどころではない。

 

「家に帰りたい」「こんなところにいたら治るものも治らん」

 

そんな事言われても反応に困るし、見ていても辛い。

なるべく一緒に居てあげたいと思う反面、とっとと帰りたいという気持ちもほんの少し湧いた。

 

なぜなら、「面倒くせぇ」と感じたから。

 

「面倒くさい」と表現したが、その中にはいろいろな想いはある。

こんなに衰えた祖母を見るのが辛い、とか、間が持たない、とか。

お見舞いに来られると却ってしんどいんじゃなかろうか、とか。

総じて、「面倒くさい」という気持ち。

 

そして、父親に至ってはほとんど病室に入ってこない。

自分の母親が病気なのに。

 

こちらも、多分、面倒なんだろう。

祖母に対する気持ちより、面倒という気持ちの方が勝っているのだと思う。

そして、その気持が露骨に行動に現れているわけだ。。

 

祖母の治療に消極的なのも、ザックリ言えば面倒だからなのだろう。

自分が積極的に関われば関わるほど面倒と感じることは増えるだろうから。

 

はっきり言うと祖母を心配する気持ちより面倒くさいという感情のほうが上回っているわけだ。

下手をすると(以下略)

 

そう考えると、面倒くさいという感情は非常に危ない。

他人を思いやることも、何かにチャレンジすることも、「面倒くさい」の一言で有耶無耶にできてしまう。

 

私にしても、東京から帰省するのは面倒くさい。

だけども、祖母、というか、家族に対する愛着や義理があるから、多少の面倒は気ならない。

だが、色んなことが一気に起こると、面倒くさい気持ちが勝ってしまって、本当はやらなければいけないことを放棄してしまうかもしれない。

 

「面倒くさいから」という気持ちは何かをやらない理由にはならない。

もし自分が何かを放棄するとしても、そのときは明確な理由を持って然るべきだと思う。

 

私も基本的に面倒くさがり屋なので、戒めとしてここに記載しておく。

 

JUGEMテーマ:日記・一般

コメント
トラックバック
この記事のトラックバックURL